Akropolis,Delphoi本日はギリシャ-アテネ(Athens)のアクロポリス(Akropolis)です。エジンバラからニューヨークに渡る前に立ち寄りました。(なんと遠道!)旅の絵をもとに随想しています。 アクロポリス(Akropolis)は、海抜154mの台地であり、ミケーネ時代(紀元前1600年ごろ)から人が住んでいました。 この古代ギリシャ都市(Police)の中核の丘(Akro)であった場所には、アテネの守護神アテナ女神の聖域とされ神殿が建てられました。 この丘には、西側だけ登り道があり、周囲は断崖となっています。パルテノン正面像はユネスコのシンボルロゴとなっています。 絵はアクロポリスの西側登り口から前門(プロピュライア)(Propylaia)を望んだものです。右に見えるのが南側にある、アルテミス・プロウロニアです。 アクロポリス(Akropolis, Athens) 周囲からは、60m余の高さ(海抜154m)の石灰岩の急勾配の丘、西側だけ登り道がありますが、他は断崖絶壁の自然の要塞となっています。 頂上の台地は南北に150m、東西200mの広さに、現在防壁で囲まれています。 現在は、前5世紀後半の状態に可能な限り復元され、プロピュライア(楼門)、ニケ神殿、エレクテイオン、パルテノンが建ち、崇高な景色となっています。 西側の傾斜をあがっていくと右にニケ神殿、左にアゲリッパの記念碑、中央に、前門(プロピュライア)。これを過ぎると、右手にアルテミス・プロウロニア、その続きにカルコテケがあります。パルテノンは中央南に向いています。(4度ほど東に振られています)北側中央に、エレクテイオン、その右横にアテネの祭壇、東側にゼウス・ポリエウスの神域、ローマ神殿が建ちます。 丘の、南斜面には 東側に ディオニュソス劇場(Theatre of Dionysos)、 ペリクレスのオデイオン(音楽堂)、 西側に ヘロデス・アッティクスのオディオン(音楽堂)(Odeion of Herodes Atticus)、 エウメネスのストア (The Stoa of Eumenes ) なども建てられています。 北側の麓の平地のアゴラ(広場)には政府や市場がありました。 アクロポリス(Akropol)の歴史 古くから、アテネの守護神アテナ女神の聖域とされ神殿が建てられました。紀元前5世紀半ばのペルシア戦争で徹底的に破壊されましたが、キモンが戦利品を用いて整備を再開しました。 アテネの最高指導者ペリクレス主導のもと大工事が行われ、大彫刻家フェイディアス(ペイディアス)を総監督とする大工事が着工されました。 再建資金は銀山からの収入と市民からの寄付の他、デロス同盟の基金からも流用したために反対意見も多くあったようです。 ヨーロッパ文明の一つの顔ともいうべき処女神アテナの神殿(パルテノン)を筆頭に、この工事はペリクレス亡き後も続行されました。 この壮大且つ華麗に再建されたアクロポリスの姿は、アテネの国力を内外に誇示するのに役立ったようです。 ローマ時代、テオドシウス帝の勅命によりキリスト教以外の異教が禁止されると、アクロポリスの神殿はただの建築物になり、 6世紀のユスティニアス帝はアテナ・プロマコス像をコンスタンチノポリスに移送し、 7世紀以降諸建築は教会堂に改修されました(ビザンティン帝国期のギリシア正教化)。 13世紀初頭の十字軍はアテネを襲い、アクロポリスはラテン教会と宮殿に改築されました。 15世紀以後のオスマン・トルコによる占領(トルコ占領時代には、パルテノンは火薬庫に、エレクテイオンはハーレムになりました。)またそれに対抗したヴェネツィア共和国軍の攻撃によって、アクロポリスは略奪・破壊されました。 ナチス占領期にはハーケンクロイツが翻り、これをひきづり下ろした青年は英雄となりました。 パルテノン(Parthenon) アテネの守護神アテナ女神を祀ったアクロポリスで最も大きな神殿。 ペルシャ戦争の勝利を感謝するため紀元前447年~438年にドリス式の壮麗なパルテノン神殿が構築されました。 中央のパルテノン神殿はドリス式建築の最高峰といわれ、直径2m・高さ10mの巨大な柱が林立します。比較的完全な建造物で、美しさの中に威容さをも感じられます。 現在修復は進んでいますが、所々崩壊しているのは、17世紀末にオスマン・トルコ軍の火薬庫として使われていた所へベネチア軍の砲弾が命中し爆発したためです。 エレクティオン神殿(The Erechtheion ) アクロポリスの中でも最も神聖な場所とされ、女神アテナ、海神ポセイドン、伝説の王エレクテウスを祀った神殿。 女神柱はとても優美ですが複製で、本物はアクロポリス博物館に展示されています。 前門(プロピュライア)(Propylaia, the entrance of Acropolis) 前門は名建築家ムネシクレス作で、中央、左右の3棟からなります。中央は正面に6本のドーリス式円柱が並び、左右には3本づつイオニア式の柱が並んでいます。奥には門扉が5つありました。かつては柱や壁一面に金粉が塗られ、大理石で作られていた天井は空色に塗られていたそうです。アテネを支配下に置いていたオスマン・トルコ軍が弾薬庫として使用していましたが、1645年落雷のため大爆発をおこし、さらにトルコとヴェネツィアとの戦闘で砲弾を受け大破。 20世紀初頭に現在の姿に修復されました。 左翼(北側)は絵画館(ピナコテーケー)。休憩室として使われた場所で、ポリュグノトスによるトロイア戦争を題材とした絵などが多数飾られていたそうです。 右翼(南側)は小さい部屋があるのみです。 Delphoi 本日はギリシャ-デルフィ(Delphoi)です。 旅の絵をもとに随想しています。(最近は歴史書のようになってきましたが・・・) ゼウスは大地の中心を求めて(昔は平面と考えられていました)2羽の鷲を放ち、両者がぶつかった所にクロノスがはき出した石を置きました。これがデルフィに伝わる「大地のへそ(オムパロス)」です。 デルフィ(Delphoi)は、アテネ市内から直線で、北西に178km。アテネ~リヴァディア(Livadia)へは高速経由で150km。リヴァディア(Livadia)からは50km弱。 デルフィの手前約25kmあたりから眺めのよい山岳地帯でその中間にあるアラホバ(Arahova)はペルナソス山(2457m)の麓にあり、ギリシャでは数少ない冬の降雪地帯です。 デルフィにあるアポロン神殿を訪れる前に、アテナ郊外にあるプロナイア神殿に立ち寄るのが正規のルートだったようです。 絵はデルフィ聖域にあるアポロン神殿とそこに残る6本のポロス石(石灰石)からなる円柱)です。背景の山がパルナッソス山(2457m)です。デルフィ遺跡は、屹立する山稜から南側のブレイストス河の深い谷の間に、天然の野外劇場のように広がっています。 山から吹き降りる風は、古代からの神託の言葉を運んでくるようです。 デルフィ(Delphoi) ギリシア中部のパルナッソス山(2457m)の南麓にあるアポロンの聖地、神託地です。 伝説によれば、この地は初め大地の女神ガイアの聖地で、大蛇ピュトンに守られていましたが、アボロンがこれを射殺して神託所を開いたといわれています。 デルフォイの神託は最初はただ地方的な意義しかもたなかったのですが、ギリシア人の植民が盛んになった前8~前7世紀ころから非常に重要視されその名声はギリシア人の範囲を越え、リュディアやエジプトを含むオリエント諸国にまでひろがりました。 その神託の方法については次のように行われたようです。 この神域にあった大地の割れ目の上に青銅の鼎(かなえ)をわたしその上に巫女(みこ)ピュティアPythia (巫女(みこ)ピュティアPythiaは50を過ぎた農婦の中から選ばれ、神殿に入る前にはカスタリアの泉で身を清めました。) が座って地底から立ちのぼる霊気 (パルナソス山の中腹の大地の裂け目から火山性のガスが噴出していました) を吸い放心状態になって神の言葉を発し(予言し)、かたわらの神官がそれを韻文に直して質問者に与えたと伝えられます。 (お告げの内容は直接質問に答えるものではなく、曖昧なものが多かったため、解釈を誤って国を滅ぼすこともあったといいます。) デルフォイは前6世紀初めの第1次神域戦争によって付近のクリサの支配を脱してから最盛期を迎え、以後、聖地の管理、経営、防衛はギリシァの12部族の間に結成された隣保同盟にゆだねられました。 多くのポリス、国王、為政者たちは重要な政治的決定のさいには、神意を聞くために使節を派遣しました。 (ペルシャ戦争の時、アテナイ軍がこの巫女の信託通りに戦い、サラミスの海戦に勝利した話は有名です) 。 また各ポリスはこぞってこの神域に戦勝記念碑、彫像を立て、高価な奉納品を収めるために宝庫を建設しました。 4年ごとに開催されるビュティァ祭の競技大会は、オリュンピアのそれとともにギリシアで最も重要な競技大会とされ、優勝者には月桂樹の枝で編んだ冠が授けられました。 しかし前5世紀前半のペルシァ戦争のさい必ずしもギリシァ側に好意的な態度をとらなかったことから評判をおとし、 さらに第2次、第3次神聖戦争の結果フォキス人に占領されるにいたって、デルフォイの信仰はしだいに衰微に向かいました。 やがて前4世紀末にはマケドニァの保護を受け前279年にはガリア人に侵略され、前168年以後ローマの支配下になりました。 前86年ローマの将軍スラは軍資金調達のためこの地の財宝を略奪し、また皇帝ネロは約500個の彫像をローマに運び去ったといいます。 その後、ローマのドミティァヌス帝、ハドリァヌス帝らの復興計画によって一時隆盛をとりもどしましたが(《英雄伝》の著者プルタルコスは。この時代のデルフオイの神官てあります。) 392年、テオドシウス帝が異教崇拝の禁止令を発するにいたり、デルフォイはその歴史を閉じました。 デルフォイの本格的な発掘調査は1891年ころからフランスの考古学者によって始められ、その結果、大規模なドリス式のアポロン神殿や大小20以上の宝庫をはじめ、ディオニュソスの小神殿、評議会場、劇場、祭壇、多数の彫像台座などの跡が明らかになりました。 アポロン神殿 正面に6本、側面に15本の柱。長さ60m、幅23mのドーリア式の神殿です。 内部は前室・神室・後室に分かれていました。現在の物はBC330のもので、3度目の改築のものです。 地下聖堂で巫女が信託を受け、大地のへそがありました。 最初の神殿は月桂樹での枝で作られたとの言い伝えもありますが、前650年頃伝説上第4番目の神殿がポロス石で建てられました。 前548年に炎上し、各地からの寄付ととくに僭主政権下のアテネから亡命したアルクメオン一族が中心となって再建、前510年頃までに完成しました。 現在残っているのは前4世紀前半の地震による火災の後に前375年に建ったものです。 内部は3つの房に分かれており、一番奥で予言が行われた。 参道 遺跡入口から神殿までの”くの字”状のおよそ100mの道。 参道の両側にはシキオン、シフノス、シラクサ、アテネなど各地からの奉納物や宝庫や記念像、記念碑がぎっしり並んでいました。一度はその姿を消していましたが、アテネ人の宝庫(前490-485年の世紀マラトンの戦いの勝利に感謝したもの 。戦利品の1/10を費やして建立。正面にみごとな2本のパロスの白大理石の柱があるドーリス式建築。)が1903から1906年に再建されたもの。 野外劇場 アポロン神殿の北西に位置する野外劇場は、紀元前4世紀に岩盤を削って造られたもので、観客約5,000人を収容できる規模を持っていました。(当時はピュティア祭の演劇が行われていた場所です。) ギリシャの野外劇場で最も保存状態がいいものの1つです。舞台はフリーズで飾られていましたが、今は博物館に展示されています。 スタディオン(競技場) 聖域をさらに登ったところにあります。紀元前5世紀に建てられ、ピュティア祭で使用された馬蹄形の競技場です。 長さ178mのトラックを持ち、建造当初は観客席がなく、観客は地面に直に座っていました。 2世紀、アテネの富豪ヘロディス・アッテコスによって凱旋門と石造りの観客席が寄進された。収容人数7000人、トラックの長さ177.55m、幅25.5m。現在でもスタートラインの石坂を見ることができます。 |